『千鳥、先ほどの小テスト、問三の答えなんだが……。』

「ああ、あれ? あれは「胡蝶の夢」よ」

『伍長の夢?』

「ち、が、う。胡蝶の夢」

『何だそれは……?』

「昔の人がすっごいリアルに蝶々になる夢を見て、目が覚めてから考えたの。
 さっき自分が蝶になる夢をみていたのか、それともいま蝶が人になる夢を見たのか、どっちだか分からないなって。
 そこから出来た故事成語。つまり人生なんて蝶々が見てる夢ぐらい儚いんだよねって例え。
 ちなみにニンベンに夢と書いて「儚い」という漢字の語源でもあるの」

『儚い…か。』

「たまーに「一炊の夢」と間違えるやつが居んのよね。」

『少佐の夢?』

「はぁ?あんたわざと間違えてない?」

『いや……。』

 

 

 

<周の夢に胡蝶となるのか 胡蝶の夢に周となるのか>

 

「胡蝶の夢」

 

 窓からこぼれるまぶしい光を感じて、相良宗介は目を覚ました。

 ほとんど無意識に枕元に手を伸ばす。

 それはもう彼にとって毎朝の習慣以外のなにものでもなかった。

三年以上愛用してきたオーストリア製のグロック19。その冷たい感触は彼の手になじんで久しいはずだった。

たから、想像していたものと全く違う感触がその手に触れたとき、宗介は思わずベッドの下から這い出そうとして――

 

どんっ。

 

ものすごい勢いでベッドの上から落ちた。

 

痛みをこらえて起き上がり辺りを見回すが、なんてことはない自分の部屋だった。

手の中には三年近く愛用中のオーストリア製の目覚まし時計。

 

自分は今これを何と間違えた?

自分はどこで眠っていると思い込んでいた?

 

苦笑とも、嘆息ともつかない吐息がついこぼれてしまう。

頭の上に銃をおいて、ベッドの下で眠っていたんだと思い込むなんて、自分の頭は相当寝ぼけていたに違いない。

(いくらなんでも安易過ぎるだろ。)

昨日夜遅くまで風間と軍事談議をしていたからといって、自分が凄腕の少年兵になった夢なんて。
 それではまるでテレビのヒーロー者にあこがれる子供と大差ないではないか。

それでも思い起こせば不思議な夢だった。

自分がとある軍事組織の少年兵で、とある任務により高校生になるという夢。信頼できる仲間たちと、純粋で優しい友人たちと、そして――

 

(そして?)

 

そこから先は言葉にならなかった。というか、何も思いつかなかったというのが正しい。まぁ、夢の話をそんなに深く考える必要もないだろ。

 

身支度を整えて部屋を出る。

食卓の上にはご飯、お味噌汁、アジの開き、ほうれん草のおひたし。母親特性の純和風の朝ごはん。

母親はすでに仕事に出たらしい。

宗介は朝ごはんを一人ぱくつきながら、机の上に朝食と一緒に一枚の絵葉書がおいてあることに気付いた。
 どこかの外国の山間の湖畔の風景写真だ。雰囲気からして北欧あたりだろう。

すぐさまひっくり返して裏を見る。英語で書かれた本文は簡単な近況報告で、
  シンプルに書かれたその内容は手紙というより報告書に近かった。文末のサインには「A.カリーニン」。

かつて宗介の命を救ってくれたロシア人からだった。

 

 

 十数年前、宗介がまだ幼稚園生になる前に彼は飛行機事故にあった。彼と彼の両親を乗せた旅客機が極北の海にほとんど墜落に近い緊急着陸を行ったのだ。

 氷に閉ざされた極寒の世界に突然放り出された宗介と母親を救ったのは、そのとき偶然その近くの海中に居合わせたソ連の原子力潜水艦のクルーだった。

これはただひたすら運命としか言いようがない。その事故で助かったのは彼らだけだったのだ。この事故で宗介の父親も帰らぬ人となった。
 それ以来相良一家は母子家庭である。

 

潜水艦が陸につくまでの数日間、重症だった母親のかわりに幼い宗介の面倒を見てくれたのがカリーニンだった。
 さらに彼はソ連についてからも政治的な問題が解決し宗介母子が日本に帰れるようになるまで何かと優遇してくれた。

その親交は今でも続いていて、あの寡黙なロシア人は時折こうして葉書をくれる。
  最後に会ったのは2年位前だった。そのときは彼の小さな息子も一緒だった。

 

 

泉川駅の改札を出てすぐにクラスメイトにあった。

「おはよう、相良君。」

「ああ、風間か。おはよう。」

「で、昨日の話の続きなんだけどさ、やっぱり自衛隊の最新戦闘機の攻撃力は……」

 さわやかな朝ら喜々として軍事談義を始めるこのクラスメイトと、宗介は仲が良かった。
 宗介自身は風間のマニアックな知識にとても及ばないと思ってはいるのだが彼自身この手の話が嫌いではないので所詮は同じ穴のムジナである。

「何、朝っぱらから物騒な話しをしてるのよ。」

 しゃべり続ける風間の声を遮るようにして、もうひとりクラスメイトが現れた。

笑顔と一緒にいまどき珍しい高めに結われたポニーテールが揺れる。母親が東南アジアの出身だというハーフでもある彼女は、
 明るい笑顔と物怖じせずはっきりとものを言う性格で、陣高生のなかでも人気が高い。

「ナミ、君も自衛隊のあの新機種のフォルムに興味があるのか?」

「あるわけないでしょ、そんなの。朝っぱらからしけた話してんじゃないの。第一ソウスケあんた飛行恐怖症じゃないの。」

「いや、しかし……。」

「飛行機に乗りたくないって去年の修学旅行結局欠席したじゃない。せっかくの沖縄だったのに。」

「行けなかったのは俺であって君じゃないだろう」

「だって、一緒に行けてればアンタ……って、もういいわよ、風間君行こう。」

 

 ナミが風間を無理矢理引きずるような形で先に進む。一人取り残された宗介は自然と修学旅行のことを思い出していた。

 クラスメイトに昔の事故の話はしていないが彼らは彼の欠席の理由を彼が話した通り「飛行機恐怖症」だと信じている。
 しかし本当は宗介の母親が宗介が飛行機に乗ることに難色を示したのだ。

 無理に母親を心配させてまで行きたいとは思わなかったので、彼はとくに反発することもなく修学旅行を欠席した。

 (ごみ係を俺に押し付けようとしていたナミがそれに怒って、それ以来なぜがごみ係をやらされる羽目になったんだ。進級してからも……、進級?)

「ソウスケ、おいてくわよ!」
 一瞬だけ思考になにかがよぎったが、すぐに何の呼び声でその違和感は霧散した。

 

その日の放課後―

偶然通りかかった職員室の前で宗介は懐かしい顔にあった。

「林水……先輩」

「ああ、相良君か。」

「どうかなさったのですか。」

「文化祭予算でちょっと相談されてね、C会計のことでちょっと。久々の母校で教職員に挨拶をしていたところだ。」

「そうだったんですか、わざわざすみません。」

「まぁ、しかたがない。普通は2年が会長で3年の前任者がアドバイザーとなるのが通常だ。
 3年で会長職についたわたしはイレギュラーでその使命を果たすことが出来なかったし、副会長も……。」

 

「林水先輩。」

 

二人の会話は遮るように、ほっそりとした少女が現れた。去年書記をつとめていた美樹原蓮だった。

 

「そうだったね……。どうやら、時間切れのようだ相良君。」

「いえ、お引止めして申し訳ありませんでした。」

「いや、君を引き止めている我々こそ謝罪すべきなのかもしれないがね。」

「は?」

「独り言だ、気にしないでくれ。」

 

奇妙な言葉を残して林水は蓮の方へと歩いていった。

 

(副会長……?)

 残された宗介は、また己のうちに宿る奇妙な違和感をいぶかることしか出来なかった。

 去年の副会長は誰だっただろうか。

 文化祭実行委員の副委員長をしていた風間経由で様々な生徒会の雑用に借り出されていたというのに、宗介の記憶のなかに不気味なほどその存在がすっぽりと欠けていた。

 急速に感情の波に蝕まれていく。

 思い出せないことがどうしようもなく気持ち悪かった。

 朝から積み重なっていく違和感。

 なにかが決定的に違うのに、何もかもがいつもどおりでその「なにか」を判別することが出来ないもどかしさ。

 とつぜんの狼狽を押さえつけるように宗介は走り出した。

 なにかから逃げるように、なにかを追いかけるように廊下を疾走する。別の生徒にぶつかりそうになり、文句を言われようとも、気にせず走った。

 前に進めさえすれば、なにかがつかめそうな気がした。

 そして、鞄も持たず、上履きのまま校門を飛び出そうとしたとき

 

「サガラさん。」

 

凛とした声に呼び止められた。

大きな声ではない、鋭い声でもない、それでも立ち止まってしまうのは最早習性のようなものかもしれない。その声の主が誰かなど考える必要がなかった。

何の習性だか疑問に思う間もなく振り返ると、案の定そこにはテレサ・マンティッサがいた。

そしてまた、宗介は違和感を覚える。

彼女がここにいることに。アッシュブロンドの髪を丁寧にみつあみに編みこんで、陣高の制服を着ていることそのものに。

そして自分の中には確かにその疑問に対する答えがあるのだ。

テッサはオーストラリアからの留学生で学校全体の有名人である、それは知識として知っている。しかし――

「サガラさん、そんなに急いでどうしたんですか?」

「いえ、ちょっと」

「サガラさん?どこか、具合でも?」

「……テッサ、ひとつ質問してもかまわないだろうか。」

「なんですか?」

テッサ、と名前を口にすることにも違和感を覚える。今となっては最早この学校の何もかもがおかしいと感じるしかできなかった。

「君は、去年の副会長を知っているか?」

テッサが小さく息を呑むのが分かった。

「えっと、知ってますけど……どうしてですか?」

「誰だった?名前は?」

畳み掛けるように宗介は言った。

「えーと、たしか…名前は……、ごめんなさい。忘れました。」

「そんなはずない。」

「ほら、私留学生ですし。今年に入ってから来たから去年のことは……」

「テッサ。」

 彼女は知っている。知っていてこの違和感の正体を隠している。

 それは根拠のない確信だったが、ためらう理由はどこにもなかった。すでにほかの事など考えられないほどに宗介は追い詰められ始めていた。

「知りません。絶対にしりません。」

しかし、相手もまたかたくなに口を開こうとはしなかった。






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