な み だ 万 華 鏡


「あ、やっぱり結構目にかかってるじゃない。切らないと視力悪くなっちゃうわよ」
 そういうとかなめはパラパラと宗介の髪の毛をつまんで、鏡に映る彼の姿に向かってにらんだ。宗介はすでに身体を首元からビニール・シートとタオルでぐるっと巻かれ、用意万全の状態で洗面所の前で椅子に座って鏡の中の自分自身を凝視している。

 少し困ったような表情をしていたがやがて口を開いて、
「少し前に自分で切ったんだが……君がそう言うなら、頼もうか」
「切り方がテキトーすぎるのよ。じゃ、はじめるからね」
 シャキシャキとハサミを楽しげに動かすと、かなめは歯の細かいクシで宗介の髪の毛を梳き始めた。
 冬のさなか、マンションの一室といえど洗面所の空気はどこかひんやりとしている。鼻歌を歌いながら宗介の髪をいじり回すかなめの姿を鏡で眺め、宗介は軽く息を吐いた。
 実のところ宗介自身はさほど髪が伸びているとも、それが邪魔であるとも思わなかったのだが、かなめが以前一度やってあげたように髪を切ってやろうと熱心に言うので、断りきれなかったのだ。そもそも断ってしまって気を悪くさせたくはなかったし、断る理由というのも思い当たらない。

 それでもなんとなく妙に抵抗を感じてしまうのはたぶん、以前同じようにしてもらったことをを思い出してしまうからなのだろうか。その雰囲気が特別嫌だったからだとかというわけではなくて、むしろ彼にとってはいい思い出であるはずなのだけれど、前回はその後が良くなかった。
 なにしろ何の別れも告げず、彼女を置き去りにして姿を消してしまったのだから。そして思い出されるのはその後の自分の所業。あの時の自分の姿を思い浮かべるだけで自己嫌悪に身震いしてしまう。とりあえず、もう二度とそんなことはしない、それだけは誓って言えるのだが――

「どうしたの? タオル締め付けすぎてた?」
「あ……いや。問題ないぞ」
 宗介が溜め息を繰り返したのに気付き、かなめはその横顔をのぞき込んだ。
「そう? じゃあ切るわよ」
「ああ」

 ハサミを動かす音とカットされた髪の毛がパラパラと落ちていく音だけが洗面所に小さく響く。かなめがせわしなく自分の周辺を動いていくのを、宗介は鏡越しに黙って見つめていた。
 沈黙がしばらく続いたのち、かなめは突然フフ、と笑いを洩らして呟いた。
「あれからもう結構経ってるもんね」
 何のことだと聞かずともわかった。宗介が一番思い出したくないと思っている前回の散髪の時のことでしかない。彼は居心地が悪そうに身体をもぞもぞと動かすと、「そうか?」と口の中で小さく言って不自然に視線を逸らした。
 それを見たかなめはおかしそうに笑って、楽しげに手を動かし続ける。幸い彼女はそれ以上話を続けようとせず、髪を切ることに集中し始めたようだった。宗介はホッとして再び鏡の中のかなめに視線を戻し、ぼんやりと眺めることにした。

 前回と違い、寒さが身にしみる季節だけあってかなめは暖かそうな薄茶色のニットのセーターを着ている。それがすらりとした身体にぴったりとフィットしていて、女性らしい滑らかな曲線が際立って見え、まるで優美な姿の猫のようだった。そんな彼女の腰のあたりばかりに自分の視線が行っていることに気が付いて、宗介はややきまり悪そうに顔をしかめた。

 こうしていると彼女は女なのだという現実を嫌でも感じてしまう。
 一番身近にいて、魅力的で好ましい人柄で。それでいて住んでいる世界がまるきり違う彼女を異性であると強く意識してしまうのは、どうにもできないほど悲しいことのようにも思えた。
 それにもかかわらず、皮肉なことに大切な日の戦いの場で、千鳥かなめは誰よりも特別な人だということに気が付いてしまったのだ。結局彼女には何も伝えられずにいるのだけれど、このままでいいはずが無いと焦る気持ちがいまだくすぶり続けている。
 だけどどうしても行動に移すことが出来ないのだ。思えば、クリスマスの事件後にふたりきりの教室の中で彼女にバースデープレゼントを贈ったあの時が一番のチャンスだったのだが。

 あの時のことを思い出すと、本当に嬉しそうな笑顔を見せた彼女の顔が頭の中に浮かぶ。宗介としてはプレゼントを渡すだけで精一杯だったが、喜んで貰えて嬉しかったし満足だった。
 そうだ、あの笑顔が……
 彼女の笑顔が、うっすらと閉じたまぶたの奥一面に広がる。頭の奥が痺れるような感覚が走り、だんだんと視界がぼやけていく。このまま眼を閉じていってしまいたい欲求と、それになんとか抵抗しようとする自制心とがぶつかり合っていたのが、二人だけの心安らぐ時間に、宗介はとろけるような眠りの世界に落ちかけていた。

 その時だった。

「ソースケ、だいたい切り終わったからシャンプーするからね」
 かなめの声に宗介はハッとなって眼を開けた。その瞬間に前回いきなり冷水をぶっかけられたことが脳裏をよぎったが、彼女の方へ眼を向けるとまるで正反対に、彼女が手にしたハンドシャワーからはほどよい温かさの湯がほとばしり出ていた。


*


「うーん、なかなかいいじゃない」
 かなめはドライヤーを宗介にあてながら、すっかり乾いた髪をくしゃくしゃといじりまわした。ドライヤーの電源を切り、今度はブラシで丁寧に整え始める。
「お、いい男。美容師の腕がいいおかげねー」
「はぁ……」
「ワックスとかつけて、もうちょっとこう、ねじってツンツンさせてもいいんだけどな」
「ワックス?」
「ま、このままの方が宗介らしいか」
 かなめはにっこり笑ってぽん、と宗介の肩を叩いた。そして何故かそのまま下を向いて動かない。「はい、これでおしまい」という言葉が出ることを予想してた宗介は、不思議そうに首を傾けて彼女の様子をうかがった。

「千鳥?」
「ソースケは……」
 うつむいたままの彼女が低い小さな声で呟く。
「あたしが明日、いきなりいなくなってたらどうする?」
 宗介は思いもよらない問い掛けにドキリとして息を呑んだが、厳しい顔つきできっぱりと言い放った。
「そのような状況には絶対にさせない」
「それじゃ答えになってないよ」
 顔を上げたかなめの悲しげな目と視線が合い、宗介は言葉を失った。

「前の時のこと、ソースケは避けてるみたいだったから話を蒸し返すつもりはなかったんだけど……でもね、やっぱり思い出すことってあるんだよ……」
「……千鳥」
「前ね、ソースケの髪を切ってる時は楽しかったし、またやってあげようとか、次は服も選んであげようかな、なんて。でも次の日学校に行ったらソースケは来てなかったし、電話もつながらないし、怖くなって部屋に行ってみたらからっぽだった」
「……………………」
「ソースケだったらどうする?」
「俺、は……」
 鏡越しにじっと宗介を見つめるかなめの視線が、その口調があまりに思いつめているように感じられて、口ごもってしまった。言葉が出てこない。鏡に映った彼女から、視線をそらせない。あの時の自身のやるせない罪悪感ばかりに囚われて、彼女の気持ちを深く考えてみる余裕さえなかったことに今更になって思い知らされた。
 彼女がどんなに大事で、一緒にいられてどれだけ幸せかわかっていたはずなのに。それに本当にさっきまで、その幸せに自分は浸っていたというのに――
 ふと、かなめが表情を和らげて顔をそむけた。
「ごめん、責めてるんじゃないの」
「千鳥」
「でもね……ソースケ」
 宗介の肩に置かれた手に少しだけ力がこもった。その手はわずかに震えている。
「明日はいなくなったり……しないよね……?」

 かなめの絞り出すような小さな声も震えていて、宗介は彼女が泣いていることに気が付いて狼狽した。一瞬だけ腰を浮かしかけたが、ビニールとタオルに覆われていて身動きの取れない自分自身がなんとも歯がゆい。
「あたし…あたしは、ソースケがいないと困るんだよ」
「千鳥……」
「やだ、ごめん」
 かなめは頬に流れ落ちた雫を両手で払いのけ、懸命に涙をこらえようとしていた。宗介はその姿に胸を衝かれ、焦った調子で必死に言葉を続けた。
「千鳥、二度と君に何も言わずにいなくなったりしない。安心しろ。……泣かないでくれ」
「うん、わかってる。ごめんね」
 くるりと後ろを向いたかなめは、ごしごしと涙をぬぐい、乱れた呼吸を整えようとしている。やがてその後姿を黙って見つめていた宗介が口を開いた。
「俺も君がいないと困るな」
「え?」
「まず、うまい飯を提供してくれる人がいなくなるな」
「……どーかしら」
 すん、と鼻をすすりながら涙声のかなめがふてくされたような調子で言葉を返した。
「本当だぞ。それに根気よく俺に勉強を教えてくれる人がいなくなる。君くらいしか付き合ってくれるような人物はいない」
「うん」
「それからこうやって、髪を切ってくれる人もいなくなる」
「そっか……」
「お互いさまだ」
 かなめは目にたまった涙をごしごしとぬぐうと、やっと振り返って照れくさそうな笑顔を宗介に見せた。宗介はほっとして溜め息をつく。
「それならいいの。……泣いたりしてごめん」
 かなめは小さく咳払いをすると、宗介の首に巻いてあったビニール・シートとタオルを外して、さっきまでの湿っぽさを振り払うような明るい声で終わりを告げた。
「はい、おしまい。どう?」
「ありがとう。そうだな、だいぶ視界がいい。君の言ったとおりだ」
 宗介は立ち上がって少し前かがみになり、鏡を見ながら軽く前髪をつまんだ。満足して姿勢を元に戻したところで、着ているシャツの裾を引っ張られる感覚にふと後ろを振り返った。

「千鳥?」
「あのね、宗介」
 かなめは宗介のシャツの裾を片手で引っ張りながら考え込むようにうつむいていたが、すぐに真剣な面持ちで顔を上げて宗介を真っ直ぐに見据えた。
「ね……キスしよっか」
 驚いたように数回まばたきをした宗介は、黙ってかなめの方を向き、さっきまでシャツをつかんでいた彼女の手を捉えた。歩み寄る必要が無いくらいの距離に彼女はいる。宗介はもう片方の手を差し伸べて、かなめの頬に触れた。

 宗介を見上げた彼女が優しく、はにかんだように微笑む。その彼女の瞳の睫毛に残った小さな涙の粒が、きらきらと光って見えた。


END







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