It’s a small world





 波打つアッシュブロンドの髪を手櫛で梳いて、テレサ・テスタロッサは吐息をついた。
 衣装ケースの上に簡単に立てかけただけの鏡を見つめ、そこに映る自分の顔を確認する。
 白いを通り越して青い顔色。目の下には肌の色が薄い分、濃く隈が浮き出ている。
 いつもは淡く桜色の唇も、今は色褪せて紫色だ。
 髪も十分な手入れが出来ない状況が続いたせいか、どこかぱさついているようだった。
(……中年のおばさんみたい)
 テレサは鏡をつまんで、くるりと裏返してしまう。
 就寝前の紅茶もたしなむ気になれず、簡素なベッドにぽてっと小さなお尻を落ち着けた。
 肩が重い。連日連夜の激務に、心身ともに疲れきっていた。
 こういう時はおしるこドリンクでも一気飲みして、さっさと眠ってしまうに限るのだが――
 あいにくと今は、自動販売機に行くだけの気力も出せない。
 彼女は鬱々と首を振った。
 ……良くない傾向だ。モチベーションが大分下がってしまっているらしい。
 テレサはまだ十六歳、肉体的には無理の利く年頃だ。
 にも拘らず、ほんの少し歩くことさえ億劫になっているというのは、
 これは身体よりも精神面の方に問題を抱えているということだろう。
 軍務に携わる者に於いて、精神的な脆弱さは時にそれ自体が致命傷にもなり得る。
 士気、という言葉があるが、これの高低によっては作戦の成否の可能性はまさに天と地ほどにも違うのだ。
 たった数日の疲れに何を大げさな、とは自分でも思う。
 しかし、テレサは指揮官だ。どんな局面にあっても精神の落ち着きと肝の太さを要求される。
 むしろそうでなくては、隊を指揮する資格などない。
 これは、早急に対処する必要があるだろう。
 とりあえず何か楽しいことを、と考えて、テレサはほんの少しだけ、口角を持ち上げる。
(……サガラさん)
 そうだ。脳に酸素が足りなくなったのか、すっかり忘れてしまっていた。
 陸戦隊SRT所属、相良宗介軍曹。彼が、金曜の夜からこのメリダ島に帰還しているのだった。
 現在の、テレサの片想いの相手である。
 相良軍曹はここ半年余り、千鳥かなめの護衛官として日本は東京、
 陣代高校に生徒の身分を借りて潜伏している。当然生活の基盤はあちらにあるので、
 メリダ島に戻ってくるのは週に一度がいいところだ。
(こういうの、遠距離恋愛って言うのかしら)
 日本語で内心つぶやき、テレサはますます肩を落とした。
 ――違う。それは双方で想いが通じ合っている場合だ。
 テレサは自分の恋愛が難しいことを承知している。
 それは、距離の問題だけではない。
 戦隊指揮官という己の立場、十六歳という若年層にありながら、異例の大佐という身分。
 そうした体面上、普通の同じ年頃の少女のように、
  恋愛にうつつを抜かしているわけにはいかなかった。
 だからテレサはこの恋を、普段は胸の奥深くに沈めて顕さない。
 不覚にもとある事件で、彼女の恋心はほぼ隊の全員に知れ渡っているのだが、それでも。
(肝心のサガラさんだけは、気づいてくれてないし……)
 当の相手の壊滅的な朴念仁ぶりも、重大な問題のひとつだ。そして、なにより。
 テレサの脳裏に、夜空のきらめきのような黒髪がひるがえる。
 切れ長の、勝気そうな瞳。宗介の護衛対象、千鳥かなめ。
 ……彼女は彼のことが好きだ。そして恐らくは、彼も。
 謀らずもテレサ自身が彼らの間を裂く命令を出す羽目になった出来事から解決までの一連の流れで、
 それは推測から確信へと変ってしまった。
 その事件は、テレサも彼との距離をいくらか縮めることの出来た、
 必ずしも辛いばかりのものでもなかったのだが――……それでも、彼と彼女の距離にはまだ遠い。
 テレサは自分の恋が実るだろうとは、すでに思っていなかった。
 かと言って、このままあっさり引き下がるつもりは毛頭ない。
 意地っ張りな恋敵が、依怙地に自分の恋愛感情を認めない現状を鑑みれば尚のことだ。
 ――宣戦布告を告げられてもいないのに、白旗を揚げる道理はない。
 
 「よし。いい感じよ……」

 テレサは今度は声に出してつぶやくと、ぱちんと自分の両頬を軽く叩いた。
 気合いを入れるときの仕草だ。以前、クルツがそうしていたのを思い出して真似てみる。
 敵愾心を燃やすと、モチベーションも回復してきた。
 いくら絶望的な恋でも、そうであればあるほど、努力のし甲斐があるではないか。
 幸いというべきかなんというのか、恋の相手は自分の気持ちに気づくのさえ
 途方もない時間のかかる木石男、ライバルは自分の気持ちを認めるのにすら苦労する恋愛ベタ。
 立ち入る隙も挽回するチャンスも、きっとまだある。まだあるはず。なきゃ困る。
 テレサは立ち上がった。まず今は、おしるこドリンクだ。
 部屋を出て、薄暗い緑の非常灯の廊下を、とことこ歩く。
 ――考えてみれば、実際の距離の問題にしたって、
 宗介は週に一度は単発の作戦やら演習やらでここに戻ってくるわけだし。
 指揮官として多忙を極めるこの状況下でだって、その気になればプライベートタイムの三十分や一時間、
 ひねり出せないわけじゃない。
 普通ならば指揮官と一下士官。話をする機会など、ほとんどあるわけもない。
 けれど彼を好きだと思ったそのときから、テレサはありとあらゆる手段を駆使して、
 彼と接する状況を作ることを試みてきた。そうしてそれは、一応の成果を見せているではないか。
 例えば、時折ではあるけれど、彼が自分に友達として話し掛けてくれるようになった。
 以前なら「いえ、自分が」と頑なにテレサにはさせなかった雑事なども、
 ある程度は任せてくれるようになった。
 恋人には到底無理だけれど、現状「準・友人」くらいにはなれているんじゃないだろうか。
 なんとなく。
 ――現実にはどうにもならない仕事上の重圧を、現実味に欠けた恋愛問題にすりかえて軽くする。
 現実逃避だが、かまうものか。それで心の平衡が保たれるなら。

(……私って、嫌な子かも)

 ぴたりと、テレサは足を止めた。自動販売機の前だった。
 コインを入れて、おしるこドリンクのボタンを押す。
 がこん、と音がして、ドリンクの缶が落ちてきた。
 火傷をしないよう、気をつけながら缶を手に取る。
 すぐに帰るのもつまらない気がした。
 テレサは自動販売機に備え付けてあるベンチに腰掛け、そこでおしるこドリンクを口に運んだ。
 はふ、とまた熱い息がもれる。

(私は、サガラさんを利用しているだけなのかしら。
 指揮官の重圧から楽になりたいばっかりに、彼を好きになったような振りをしている……?)

 テレサは大きく首を振った。そんなことはない。自分はちゃんと、彼が好きだ。
 彼の不器用な優しさも、素朴さも、その真面目さも、みんなみんな、大好きだと思っている。
 相良宗介の真摯な横顔が好きだ。温かな掌が好きだ。
 低い、静かな声が好きだ。
 無造作な手入れのまったくしていないぼさぼさの髪でさえ、なんて可愛いんだろうと思う。
 テレサはまだ、多くの恋を知らない。
 初めて好きになった人は、悲惨な末路を迎えてしまった。
 もう永遠に、会うことも話すことも許されない。――思い出すことすら、苦しみを伴う。
 ……宗介を好きになったのは、彼の面影を追ってだろうか。
 彼と宗介はまったく似ていない。性格も彼はロマンチストタイプで、宗介は徹底した合理主義者だ。
 ソフトとハード、むしろ対極の位置に在ると言っていい。
 共通するのはその年代くらいなものだった。テレサは、うそ寒い気分になる。
 
 ――私は、誰でもよかったのではないか。自分と同年代で、自分の立場を理解してくれそうな誰かなら。

 『彼』でも、宗介でも、誰でも。ほんの一時、普通の少女を夢見させてくれさえすれば――……
 恋だの愛だの、本当のところはまだ分からない。
 この好意が、どこから起因しているものなのかも。
 テレサはおしるこドリンクの缶を見つめる。
 甘い香りが、媚薬のように少女の鼻腔をくすぐった。
 ――『誰でもよかった』なんて、そんな淋しいのは嫌だ。そうまでして他人に縋りたい自分は嫌いだ。

(……確かめてみようか)

 テレサは制服の胸ポケットから、新たにコインを取り出した。





 相良宗介は自室の二段ベッドに腰掛けて、顔の全面からだらだらと脂汗を垂れ流していた。
 手には一冊のテキストがある。
 テキストの内容は「徒然草」。
 この軍用施設にはまったく似つかわしくない、日本文学の古典である。
 これは、学生としての彼に課せられた、いわゆる宿題というやつだった。
 数学の宿題ならばさしたる突っかかりもなく済ませてしまったのだが、
 とかくこの古典とやらは文学には馴染まない宗介には難しい。

(それでも、『源氏物語』よりはましなはずだ)

 宗介は少しでもポジティブシンキングを保とうと、こくこくとひとり、うなずいた。
 今この部屋には彼以外誰もいない。
 同室の隊員はみな、この島唯一のバー「ダーザ」に一杯引っ掛けに行ってしまっている。
 「徒然草」は、吉田兼好という名の僧が著したという随筆だ。
 「徒然」の言葉の指すとおり、日常のちょっとしたことなどを、訓戒を絡めて書いている。
 先達の教えは請うべし、など、現代でも役に立つようなヒントも多い。
 宗介のようなタイプには、比較的理解しやすい古典と言えよう。
 対して「源氏物語」は、紫式部とか言う当時の宮廷女官の手による壮大な恋愛絵巻である。
 この物語の主人公である光源氏という男は常に恋愛を中心に世界がまわっており、
 実の母を恋い慕うあまり彼女に面差しの似た義母に愛を迫ったり、
 事成し遂げたれど想い叶わず、の結果に終われば、
 今度は更にその彼女によく似た童女を探し出してきて、自分に都合のいい女に育て上げようとする始末。
 はっきり言って、女のことしか頭にない。しかも救いようのないマザコンらしい。

(……このような男が主役の物語が、千年を越えて受け継がれる名著とは)

 ――全く、日本人は奥が深い。これだから古典というのは難解なのだ。
 日本人であるくせに、日本で育った記憶がない宗介には、
 どうしてもこの国を外側から見てしまう傾向がある。
 そうして海外の戦場育ちの目線から捉えた「日本」は、あらゆる意味で彼には理解しがたく、
 戸惑うことばかりなのだった。
 しかし、だからと言って逃げることは許されない。
 陣代高校の生徒という立場は、彼が苦難の末にもぎ取った至高の果実だ。
 学力が足りないなどという理由で、腐り落ちさせてしまうわけにはいかなかった。
 宗介はシャープペンを持ち替えて、もう一度「徒然草」の的確な現代語訳に努めようとした。
 しかし、その持ち手はすぐにぴたりと動かなくなる。

(……誰だ……?)

 ドアの外に、気配があった。宗介は、音もなくベッドから立ち上がる。
 最新のハイテク機器と種々のレーダーで鎧【よろ】われた、
 この基地に入り込める者がそうそういるとは思われない。
 ましてやここは、ただの兵舎だ。万一忍んできたところで、メリットなど皆無に等しい。
 それでも宗介は、警戒を怠らなかった。
 床に吸いつくような足取りでドアに近づき、ドアノブに手をかける。
 兵士の誰かのいたずらなら、それでもいい。
 多少手荒なことをしても、連中ならばかわすだろう。そうでいてくれなくては困る。
 一気にドアを開け放つ。その勢いによろけた相手の腕を掴み、同時に部屋の照明を切った。
 掴んだ人間を腕に抱きこむようにして、ドアを後ろ手に閉める。

「何者だ」

 耳元でささやくと、腕の中の人物はぶるっと震えた。やけに感触がやわらかい。
 南国の濃密な闇の中、鈴の振るような声が応えた。

「……あなたの、上司です……」






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