緋。(後編)









 既視感。
 夕日に染まった運動場。砂塵を風が巻き上げる。何もかもが、赤い。
 赤一色に塗りたくられた人も器具も建物も、みな血にまみれているかのようだった。
 宗介は目を閉じる。まるで赤い闇だとそう思った。
 ……何故思い出したりしたのだろう。自分の陰鬱な記憶のフィルム。
 そのワンシーンに過ぎなかった出来事のはずなのに。
 自分から窓辺に歩み寄るなど、彼の常識では自殺行為だ。
 それでも宗介は己の額を窓ガラスに押しつけると、閉じていた瞳を開いた。
 夕闇に、少しずつ紫が混ざりこんでゆく。陰惨な血の光景はほんの数瞬で過ぎ去り、
 眼下に映るのはすでに平穏な日常だった。
 そう、平和な国なのだ。こうして窓辺に添っていても、殺される心配をする者などほとんどいまい。
 数人の女生徒が明るく笑い合いながら、正門へ向かって歩いてゆく。
 彼女らは、戦場を渡る風などきっと知らない。その末に待つ死など、むろん想像もつかないだろう。
 肩を叩いて校庭を整備する男子生徒。時折手にした清掃用具でチャンバラの真似事などしている。
 ……彼らは、あんなものでも人が殺せることを知っているだろうか。
 例えどんなものでもいい、使えるものは全て使って、己の命をがむしゃらに守ったことがあるだろうか。
 目には目を。歯には歯を。血には血の報復を。それが、当然の世界で生きてきた。
 それ以外の生き方など、知らなかった。
 彼は自分の両手に視線を落とす。今まで生きてきた痕跡を顕すように、
 すっかり分厚くなった掌から、無骨な指先まで。じっとりと、暗い赤が覆っていた。
 沈みゆく陽の色だ。分かっている。
 端からゆっくりと酸素に触れた血液のように黒ずんでいくのは、
 夜が忍んで来ているせいだ。知っている。
 ――にも拘らず、宗介には、それが真実血濡れて見えて仕方がなかった。
 あるいは端的に、自分の立場というものを、思い知らされているような気さえした。
 この国の、この町の、この学校の生徒たちとは、あまりに違うこの自分。
 共通しているのは、わずか年代が同じだということくらいなものだろう。
 また、胸の底が冷えた気がした。相変わらず、心は小波立ちもしなかったが。





 生徒会室へと通じる階段を上がりながら、千鳥かなめはうんざりと長い髪をかきむしった。
 今日の午後の授業で、授業中だと言うのに彼女のクラスの女生徒がこっそり編み棒などを持ち込んでおり、
 案の定見つかって、あえなく担当教師にお縄となった。
 彼女の先ほどまでの用向きとは、その担当教師に件の女生徒の編み棒と編みかけのセーターとを、
 どうか返してやってくれと懇願することにあったのだ。
 没収は、自業自得だ。それも授業中に編み物など、ばれずに済むと思うほうがどうかしている。
 かなめは生徒会の人間だが、だからと言って盲目的に生徒側につくほど視野の狭い人間でもない。
 しかしその編み物が、じきに転校してしまう片想いの相手のためだと知ってしまっては、
 動いてやらないわけにもいかなかった。何とか差し支えない範囲で彼女の事情を説明し、
 それでもペナルティはペナルティだと渋る教師を説得し尽くして、
 なんとかブツの返還に至ったのがついさっき。気づけば、もうすっかり辺りは闇に沈んでしまっていた。
 ほぼ同時刻に折衝を終えた林水と蓮は、とうに正門に向かっている。
 生徒会室の戸締りは、かなめが進んで引き受けた。
 どうせこの時間では今から生徒会室に戻ったところですぐにお開きになってしまうし、
 部屋には宗介が忠犬よろしく自分を待っているに違いない。
 彼を迎えにいくついでに戸締りを済ませる。無駄がなくて大変よろしい。
(お蓮さんも、センパイと二人きりのがいいだろうしね)
 ちょっとだけ微笑んで、かなめは奪還してきた編みかけのセーターと編み棒入りの袋を
 ガサッと手の内でゆすり上げた。
 ――そういえば、自分はこんな女の子らしい真似はほとんどしたことがないな……などと思う。
 思ったとたん、ぱっと宗介の顔が脳裏に浮かんだ。かなめは赤くなって、首をぶんぶんと横に振る。
(やめやめ。どーせアイツに編んであげたって、まともに着てくれやしないんだから)
 普段着が野戦服の男である。やわらかな毛糸で編んだセーターなど、
 防御性能だの実戦的にどうだのとまた訳の分からない小理屈をつけて、
 袖すら通してくれないに決まっている。乙女な発想、するだけムダなり。
 重い吐息をつくと、それに引っ張られるようにして、
 少しだけ重い気持ちが胸の底から湧き上がってきた。 昼間の、孝太郎の科白だ。
『血腥いんだよ』
 むろん、あれは孝太郎的には諫めの言葉だったのだろう。
 何しろ宗介ときたら、確かに物騒な発言ばかり繰り返すし、行動もそれに準じてとんでもない。
 校内であればのんきな校風も手伝って、皆なんだかんだと許してくれるが――
 いつまで経ってもああして日本に馴染めないようでは、いつか彼自身がとんでもない羽目に陥ることになる。
 その心配が嵩じての発言なのに違いない。
 普段は軽薄そのものだが、孝太郎はあれでなかなか情に篤いタイプなのだ。
 宗介も、きっとそのあたりのことは分かっているはず。
(でもね……)
 階段の終着点が見えてきた。かなめはふと足を止める。
 昇り切ってすぐ左にある生徒会室から、灯りの洩れている気配はなかった。
 心臓が、少しだけいやな感じにどきりと跳ねた。
 ――学校とこの町という狭い世界の中でこそ、相良宗介は間抜けな戦争ボケに過ぎないが、
 実際の彼は世界規模の傭兵組織に属する凄腕の兵士だ。
 発想が物騒なのも血腥い感じがぬぐいきれないのも、ある面では仕方のない部分もある。
 しかし、この陣代高校に在籍するようになってはや半年以上。
 宗介も何とかこの生活とかなめの護衛という任務の間で折り合いをつけようと努力している。
 その甲斐あってか、以前ほどのすさまじい勘違いや騒動を起こすことは少なくなり、
 彼自身も成果を実感していたはずだった。
 ……そういう宗介に、事情を知らないのだから無理もないとは言えど、
 孝太郎の言葉はかなりきつかったのではなかろうか。
 結局おまえの努力など、物の数にもなってはいないと、宣告されてしまったようで。
 
 
 
 
 
 諸々考えているうちに、かなめの足は生徒会室の前まで着いてしまった。
 中は予測どおり真っ暗だ。ドアノブをひねるのには、ほんの少し勇気が要った。
「ソースケ。……いる?」
 覗きこんで、どきりとする。珍しく嫌いなはずの窓辺近くに寄り添って、
 宗介はこちらを見ていた。いま振り返った、という様子ではない。
 かなめが近づいてくることを、ずいぶん前から見越していたような態度だった。
「ええと……ただいま」
 間の抜けた挨拶をしながら、かなめは電灯のスイッチを探る。
 ちかちかと瞬きを数回繰り返したあと、蛍光灯が部屋を照らした。
 周囲が明るくなって、黒一色のシルエットでしかなかった彼の顔が、少しだけまぶしそうに歪められる。
「あんたね。灯りくらい、点けなさいよ」
 せかせかと言いながら、かなめは宗介のそばに歩み寄った。
 歩きながら、ついでに自分の椅子に立てかけてあった学生鞄を引っ張り出す。
「……すまん。忘れていた」
 どこかぼうっとした声音で宗介が答えた。
 これも、常に緊張感みなぎる彼には珍しい現象だ。
 だから、かなめもついつい、いつも以上にきつい調子で返してしまう。
「忘れたぁ!? あんたらしくもない。一人真っ暗な部屋で、なにをボーッとしてたわけ?」
 口調は乱暴だったが、彼女の行動は親切だった。
 宗介のぶんの鞄も手に取って、いまだ微動だにしない彼の手に渡してやる。
「さ。帰ろ」
「……ああ」
 宗介が鞄を受け取り、帰り支度を済ませてから、二人で戸締りを確かめた。
 それから連れ立って部屋の鍵を宿直の用務員に手渡すと、玄関口を通過して、暗くなった校庭へと降り立つ。
「ふぁ。もー、だいぶ寒いねぇ」
 かなめが言って、夜空に白い息の塊を吐き出した。宗介は無言でうなずく。
 そのままあとは言葉もなく正門に向かい、そこを抜けようというところで、ぴたりと宗介が足を止めた。
「どしたの?」
 彼は、背後の無人の校庭を振り返っている。
 夜の学校はどこもかしこもがらんどうで、まるで死んだように生気がなく、
 今は用務員室の灯り以外には何もない廃墟も同然だった。
「いや。……誰もいないと思ってな」
「当たり前でしょ。いま何時だと思ってんの」
 呆れて鼻を鳴らすと、かなめは宗介の腕をぐいっと引いた。ぎょっとするほど冷たい手だった。
「……ほらほら、とっとと歩く! 寒いんだからっ!」
 自分らしくもない積極的な行為と、いつになく心細そうな宗介の様子に少なからず動揺しながら、
 それでもかなめは空元気を張り上げる。ここでしっとりと優しく彼を気遣う態度など取れないところが、
 千鳥かなめの千鳥かなめたる所以なのだった。
「そうだな」
 彼はうなずき、かなめに素直に従って歩き出した。
 しばらく歩いたあたりで自然と互いに手を離したが、寄り添いあうような肩の距離は変わらなかった。
 ややあって、泉川駅のプラットホームが見えてくる。そのささやかな光に目を遣り、宗介がぽつりと言った。
「明るいな」
「そお? 小さい駅だし、むしろ光量は少ないほうだと思うけど」
 首をかしげてかなめは言う。宗介は、そこではたと気づいたような顔をした。
「そうか……」
「ん?」
 先ほど、一人で暗い生徒会室に立っていた時。世界は慣れ親しんだ闇の色をしていた。
 それは冷え切ってはいたが、ある意味どこか安堵も感じる彼だけの空間でもあった。
 ――そこに、千鳥かなめが光を射した。
 その時の感情を、どう言葉で説明すればいいのか分からない。
 いきなり自分の領域を侵されたような気がして、宗介は一瞬不快になりさえしたものだ。
 が、それと同時に――……いや、それよりもずっと強く。
「わかった。君だ」
「はあん?」
 かなめが大仰に顔をゆがめる。宗介はその顔をじっと見つめた。
「な……なに?」
 彼の真剣な眼差しに、かなめは慌ててデッサンの狂っていた顔を整える。
 ――光。強い光を感じる。それは彼の知る緋色の闇よりも鮮烈で、
 彼の安んじる漆黒の闇を切り裂くほどに、力強く生気にあふれる。
 冷たさと乾きは、彼の常識でもあった。彼のアイデンティティでもあった。
 それなくしては、今の彼はゆるぎない存在ではいられない。
 たとえば級友のたった一言に、怯み傷ついてしまうほど。
 光も、それと同じものだ。鮮烈で、力強く、常に彼を怯えさせ、時には傷つけてくれたりもする。
 だが、必要なのだ。それでも、恋しいのだ。
 抱きしめるにはそれはあまりに清らかで、やはり血腥いこんな手で、
 触れるわけにはいかないけれど――……
「君が、俺にとっての光なのだ」
 宗介は、彼にとっては明快で単純な結論を、ただ真っ直ぐに彼女にぶつけただけだった。
 しかし古臭い愛の告白そのもののその科白に、たちまちかなめの顔は真っ赤になる。
「あっ、あっ、あ……あんたは……天下の往来で、なに恥ずかしいことほざいてんのよっ!?」
「思ったままを言ったまでだが」
 きょとんとする宗介に、かなめはぐっと言葉に詰まる。
 周囲からくすくすと笑う声も聞こえてきて、彼女の熱はさらに上がった。
「……? どうした?」
「ああ〜っ、もおっ!」
 かなめは叫び、鞄で顔を隠すようにして走り出す。
 いきなり置いてきぼりにされて、ぽつんと立ち尽くす宗介を、しばらく行ってから振り返った。
「さっさと来なさいよ! 電車が出ちゃうでしょ!?」
「……うむ」
 彼はうなずき、駆け出した。かなめは眉間に寄っていたしわを解き、
 仕方がないわねと呆れたような笑みを浮かべる。
 暖かな小さな光は、プラットホームのこぼれる灯りとともに、彼を待ってくれていた。





 ――緋色の記憶は、また彼の心の奥へと沈む。
 この町に居られる、ほんのわずかな間だけ。





【終】



あとがき

はじめまして、矢月水と申します。
今回、初めてこの企画に参加させていただきました。
ミリタリー関連や戦争ものの知識が皆無なので、
色々おかしな点続出かとは思いますが、どうぞ広いお心でご勘弁を。
宗介が大好きです。自分の書く彼はどうにもヘタレなようですが、
これからもカッコいい宗介を追求していきたいと思います。
小説にコメントつけるの苦手なもので、この辺で。


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