雪華のフェアリーテイル

Written by 梶原睦月

 車窓を流れる景色に時折白いものが混じることに気付いたのは宗介だった。少しの間それを注意して見つめ、正体がわかって何気なく口にする。
「雪か」
 低い呟きに、シート端のポールに背中を預けて雑誌を読んでいたかなめが顔を上げた。
「え、雪? 雪が降ってるの?」
「肯定だ」
 かなめはポールから身を離すとさっと振り返った。だが生憎と視線はドアの前に陣取った他校の生徒たちに遮られてしまう。
 土曜の昼過ぎという半端な時刻のわりに、沿線に大学や高校が多いためか、帰宅する学生生徒で車内は比較的混んでいた。出入り口に近い自分の位置ではまともな視界を得られないとわかり、かなめは宗介の背後を回り込んでその左側に移動した。
 改めて外を眺める。確かに、窓枠の左上から右下へと小さな白い粒がランダムに落ちていく。
「ホントだ。天気予報は夕方からって言ってたのに、早かったね」
「そうだな。この分では今夜はかなり冷え込むだろう。防寒に気を配った方がいいぞ」
「今シーズンの初雪よ。明日は雪合戦できるくらい降るかな?」
「予報ではさほど積もることはないと言っていた。比較的早く止むのではないのか」
「すごおい、どんどん嵩が増してきてる。綺麗だね」
「……聞いてないな」
「ん、なに?」
「いや、いい」
 自分の言うことにさして注意を向けてくれない少女との、どことなく噛み合っていない会話に少年が密かに溜息を吐いた頃、電車は二人の自宅の最寄り駅へと滑り込んだ。プシューっと音を立ててドアが開くと、少女は軽やかな足取りで、少年はしっかりとした足取りで、相次いでホームに降りた。
 暖房と人いきれで暖かかった車内を出て、いきなり凍えるような外気に晒され、温度差が一際強く感じられる。かなめは身震いした。外していたコートのボタンを留め、マフラーを捲き直す。
「ううう、寒いよお」
「雪が降っているくらいだからな、当然だろう」
 特に寒さを感じている様子もない宗介は、黒いダッフルコートの前を開けたままだ。いつまでたっても学生服姿のままでいたために、見ている方が寒くなると主張するかなめに半ば無理矢理購入させられたコートであるが、咄嗟の時にヒップ・ホルスターの銃を抜きやすいよう、ひも掛けボタンを留めたことはない。
 二人が改札を抜け、駅の構内を出ると、辺りには一面に鳥の羽のような雪が舞い降りていた。電車の中からでは勢いのあるように見えた降雪も、実際はさほどでもなく、ふわっと落ちてくる灰雪だ。それでもすでに周辺の植え込みの天辺をところどころ飾り始めている。
「わあ、降ってる降ってる」
 かなめが先立って駆け出した。駅舎の屋根が途切れたところで立ち止まると、黒の手袋に包まれた片手を天に差し伸べる。
 数秒遅れで追いついた宗介は、折りたたみの傘を拡げていた手を止めて、無言で少女の横顔を眺めた。見とれた、というのが正確だったろう。絶え間なく降りてくる雪を漆黒の髪に飾り、夏の日焼けが消えてすっかり白さを取り戻した顔に、リップクリームのせいで濡れているようにも見える紅い唇がやけに印象的だった。
 そんなかなめを見つめていて、ふと宗介はなにかを思い出しかけた。雪の中の白と赤と黒。それらがキーワードの昔の記憶だ。だがはっきりと形となる前に、耳に届いたアルトの声で我に返った。
「ほら、見て。雪の結晶」
 目の前に、かなめの右手が突きつけられていた。なるほど手袋には受けた雪片が載っている。それをちらっと見てから、宗介は困っりきって少女の顔に視線を戻した。なにを求められているのかわからず、どう反応すればよいものか判断が付かない。そうこうするうちに、ひとひらの雪は溶けて水滴に変わっていく。
 気を悪くしたろうか? 宗介は、まだ手袋に視線を落としたままの相手の表情を伺った。
 だが当の少女は別段気にした様子もなく、
「あ〜あ、消えちゃった」
 と呟いて手袋をぱたぱたと払うと、商店街の方へと向き直った。
「いこっか」
 言うと同時に、さっさと前方に踏み出す。
 宗介は慌てて後を追った。
「千鳥、傘は持っていないのか?」
「学校に置いてきちゃった。家に帰るまでなら大丈夫だと思ってたんだもん」
「希望的観測はよくないぞ」
「はいはい、ご説ごもっとも」
 歩きながら手元で拡げていた折りたたみ傘を開いて、宗介はかなめの真横に並んだ。傘を差し掛ける。
「入れ」
「うん。……ありがと」
 二人が歩いている間にも、雪は確実に勢いを増していた。ものの輪郭が少しずつぼやけていく。人や自転車が行き交う路面はまだ濡れているだけの状態だったものの、これが白く塗り替えられるのも時間の問題と思われた。
 商店街を抜けると、辺りは住宅街へと変わった。人通りも一気に減り、その数少ない人々は皆、本格的に降り籠められないうちにと足早に過ぎていく。
 そんな中で、宗介とかなめだけがのんびりと歩いていた。
 宗介としてはさっさと帰宅したいところだったが、肝心のかなめが一向に急ぐ様子を見せない。生け垣がそろって綿帽子をうっすら被った一角を指さして、
「練乳がかかった抹茶のアイスバーのマルチパックみたい」
 だの、純和風の門構えをもつ一軒家の庭を覗いて、
「日本庭園には雪が似合うわね。これぞ風情ってやつよ」
 だのと、あちこちきょろきょろと眺めながら埒もないおしゃべりを続けるのだ。仕方なく黙って少女に歩調を合わせているしかなかった。
「それにしても、あっという間に真っ白になっちゃったね。この分なら結構積もりそうじゃない? 森田さん、大はずれ〜!」
 楽しげな笑顔を浮かべて声を弾ませるかなめに、宗介は微かに肩をすくめる。
「なぜ喜ぶのかわからん」
 真横を歩く人物の、表情と同じくらい無愛想な声音に、かなめが顔を向けた。少しばかり不満げな様子だ。
「えー、だって、なんとなく楽しくなってくるじゃない」
「それがわからない。雪などやっかいなだけだがな」
「なあに、雪は嫌い?」
「好ましいとは思えん。作戦行動が難しくなるからな。それにASも、凍結防止にオイルを変えたり可動部を甘くするなど、整備の変更が必要になってなにかと面倒だ」
「……………………あっそっ」
 いつもどおりの自分とはまったく主眼の異なる意見に、かなめは「まったくこの戦争ボケは」とやはりいつもどおりにボヤいた。
 やがて、マンションが立ち並ぶ合間にある小さな児童公園に差し掛かった。公園といっても、申し訳程度に子供向けの遊具が片隅に設置されただけの、ちょっとした空き地にすぎない。それでも普段のこんな時間には、母親に連れられた幼児や学校帰りの小学生でそれなりにぎわっている。
 だが今は誰の姿もない。一面の雪に覆われているだけで、ひっそりとしている。
 突然、かなめが傘を飛び出た。車止めの柵を跳び越えて公園内に走り込む。
「千鳥!」
 即座に少女を追って、宗介も公園の中に入った。
「いったいどうしたんだ」
 追いかけてくる少年の声など知らぬげに、軽やかに走る少女は滑り台に駆け寄る。さっさとハシゴを上って天辺に立つと、上から見下ろして、元気よく宣言した。
「この公園はたったいまあたしが占領した!」
「千鳥?」
 かなめの突飛な言動に、対処のわからない宗介はただ見上げるばかりだった。
「ふふ、な〜んか独り占めって感じ」
「わけがわからん」
「だって普段は子供が遊んでいるから、高校生が使うわけにはいかないでしょ」
「いいからもう降りてこい。こんなときに足場が悪いところは危険だぞ」
「大丈夫だったら」
「すぐに降りるんだ」
「うるさいなあ。降りればいいんでしょ、降りれば」
 さらに口を開きかけた宗介の目の前で、いきなりかなめは滑り台の斜面を駆け下りた。勢いのついたまま、砂場に飛び込むように着地する。
「無茶苦茶だな、君は。怪我をしたらどうするんだ」
「しなかったんだからいいじゃない」
 軽く笑って、またかなめは走り出す。反対側に走り寄ると、思いっきりジャンプして頭上に伸びた常緑樹の枝を手で払った。わずかばかり積もっていた雪が、パサパサと音を立てて落ちてくる。一部は長い黒髪の上にも降り掛かってきた。
「風邪を引くぞ」
「平気よ」
 返事と共に、かなめは次の樹に取りかかる。
 このようなときには本人の気が済むまで放っておくしかない。宗介は諦めてそばに付いて歩いた。
 クリーム色のウールのコートに包まれたほっそりとした姿が、元気に走り回るのを黙って見守る。ステンカラー・コートは、シンプルなデザインが却ってかなめの容姿を引き立てていた。艶やかでさらさらした長い黒髪が、少女の動きに一瞬遅れて背中で揺れた。もともと色白であるのが寒さでさらに白んで雪肌となっている顔には、快活な笑顔が浮かんでいる。走り回っているせいで頬が上気してほんのりと紅く染まっており、ふっくらとした瑞々しい紅い唇が時折明るい笑い声を零す。
 駅前でぼんやりと形になりかけた宗介の記憶が、もう一度心の表層に浮かび上がってきた。
 そのときだった。最後の立ち木の枝から雪を落としたかなめが、地面に降りた瞬間にバランスを崩した。
 宗介はとっさに傘と鞄を放り出して駆け寄る。すんでのところでかなめを抱き留めた。足下が滑って宗介まで転びそうになったが、なんとか踏ん張り、中腰になりながらもかろうじて転倒を免れることができた。
「気を付けてくれ」
「ごめん。ありがとね」
「いや」
 かなめを抱え直し、無事を確認するためその姿にそれとなく視線を走らせたとき、唐突に宗介の記憶の欠片が転がり出てきた。
「そうか、スノーホワイトだな」
 意識せず口をついて出た。
「へ? なんのこと?」
 支えられて体勢を立て直しながら、かなめが問う。
「君を見ていたら、『スノーホワイト』という子供向けの物語を思い出した。ずいぶん昔に聞いた話で、すっかり忘れていたが」
 かなめがきょとんとする。
「あたしとなんの関係があるのよ?」
「雪のように色白で、唇と頬は紅く、黒檀のような黒髪の子供をと願って生まれたのがスノーホワイトだろう? 君はちょうどその描写どおりの姿だ」
「ふ、ふうん」
 悪い意味で言ってるのではなく、むしろ誉めているのだろうと解釈して、かなめは面映ゆげに目を逸らした。心もち頬の赤みが増している。なんとなく間が持たず、自分の髪や両腕をはたいて雪の名残の水滴を払った。
「もっともスノーホワイトには、こうまで活発すぎるという記述はなかったはずだがな」
「どーせ」
 投げ捨てた荷物を取ってきた宗介に促され、さすがにかなめも今度は大人しく傘の中に収まった。公園を出て都道に戻る。
「でも、なんか意外ね、あんたが『白雪姫』を知ってるなんて」
 照れ隠しもあってか、かなめの口調は素っ気ない。
「しらゆき……?」
「日本語で『白雪姫』。英語で『スノーホワイト』よ」
「そうか、日本では『白雪姫』というのか」
「うん。……それにしても、グリム童話を話して聞かせてくれるヒトが、あんたの周りにいたってのは驚きだわ」
「パキスタンで一時期難民キャンプに隠れたことがある。ボランティアが子供たちを対象に学校を開いていたので、怪しまれないように俺も何度か参加した。そのときに、教師をしていたドイツ人から聞いたんだ。自国の文学者であるグリムの話を頻繁に語っていたようだったな」
「へえ。でさ、ソースケはそういう童話についてどう思った? 王子様だのお姫様だのなんてお話、どうにもあんたとそぐわないっていうか、違和感ありまくりなんだけど……。聞かされたときの感想って覚えてる?」
 宗介は生真面目に記憶を遡った。ややあって口を開く。
「ふむ、『スノーホワイト』について言えば、姫を暗殺しようとした継母は、入念な計画を立ててから実行に移すべきだったとまず思ったな。それに同じ手口を三度も繰り返すなど、プロにあるまじきことだ」
「……プロじゃないでしょーが」
 ぼそりと呟かれたかなめのツッコミを特に意に介することなく、宗介は続けた。
「スノーホワイトも三度も同じ手口で騙されるとは、あまりに学習能力がない。不用心というよりは、思慮が足らなすぎる。どうも物欲が強く、食い意地が張っている性格だったようだ」
 いきなりかなめが立ち止まった。
 すぐに宗介も足を止める。どうしたのだろうかと隣に目をやると、相手の恨みがましい視線に囚われた。反射的に半歩退いてしまった。
「へえ、そう。つまりあんたは、その頭が弱くて物欲まみれの意地汚いお姫様のこと、あたしを見てて想い出したって言うのね」
「誤解するな、千鳥。白くて紅くて黒いというので連想されただけだ」
「ほお、そうなのお?」
「…………」
 くるりと向き直ったかなめがとっとと歩き出したので、宗介は従者よろしく傘を捧げながらそれに付き従った。息も凍るような寒さの中で、少年のこめかみに汗が浮かぶ。
「ま、今になって考えると、確かに『白雪姫』にはツッコミどころが多いわね」
 数メートル進んだところで、なにもなかったかのようにかなめが話しの続きを始めた。口調に不機嫌さはなかったので、宗介はほっとした。
「そうか?」
「うん、王子様にしたって、ネクロフィリアの気があるのか、とでも言いたくなるし」
「……ち、千鳥」
「だって死体を欲しがったんだよ。童話だからって言えばそれまでだけど、たまたま通りかかったとこに転がってた縁もゆかりもない死体を貰い受けようなんて、いくらなんでもねえ」
「うむ」
 宗介は、少しだけ間を空けて、躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「……王子は……ただ単に……スノーホワイトの美しさに魅せられただけではないのか?」
 かなめが再度立ち止まった。珍獣に対するような目つきで、まじまじと少年の顔を見つめる。
「うっわあ、ソースケのセリフだなんてとても信じらんない。あんたにはその手の感性は絶対ないと思ってた」
「なかなか失礼な言い種だな」
 少女を見返してから、宗介はそっと視線を外して明後日の方向に向けた。
「俺は……君を見ていてそう感じたから、言ってみただけだ」
 かなめは、そっぽを向いたままの宗介の顔を上目遣いに見上げた。
「ソースケ、ひょっとして、熱でもある?」
「…………」
 宗介はわずかながら肩を落とした。
 それからしばらくの間、二人は無言で歩いた。視線も逸らし気味になる。なにせ宗介は寡黙であるため、かなめの先導がなければ会話が成り立たない二人である。照れが先行してかなめがなかなか話しかけられずにいるせいで、話は立ち消えてしまっていた。だが、その沈黙は決して気まずいものではなかった。
 最後の角を曲がって二人の住むそれぞれのマンションが視界に入ったとき、ようやくかなめは口を開いた。
「あのね、童話には、あたしでも小さい頃はちょっと憧れたりもしたんだよ。『白雪姫』もそうだし、あとは『シンデレラ』とか『眠り姫』とか、要するに、いつか王子様が、ってやつね」
「そうか」
「うん。でも、そのうちにそんな童話を素直に楽しめなくなっちゃった。……そして王子様とお姫様は結婚して幸せに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし。な〜んて、現実ではなかなかそうはいかないんだって、残念ながらわかっちゃったんだよね」
 一息吐いたかなめが、宗介の顔を覗き込んできた。首をかしげて、なんとなくいたずらっぽい表情を浮かべている。
「それでもね、お伽噺の結末を信じてみたくなるときもあるかな」
 早口で言い切ると、かなめは顔を背けてしまった。
「そうだな。同感だ」
 宗介が存外に感情を込めて返事をする。
 かなめはさっと振り向いた。さも驚いた様子で目を丸くしている。
「ソースケさ、あたしがどういう意味で言ったのか、わかってて同意してるわけ?」
「と思うが」
「ふーん、本当かなあ」
 少しの間、かなめは目を細めて胡散臭げに隣の少年の様子を伺った。言外の意味を汲み取るのがへたくそな宗介だから、元々通じなくていいつもりで言ったのだった。それが思いがけない返事を返されて、却って戸惑ってしまう。
「ま、いいわ。そういうことにしといてあげる」
「…………」
 すげない態度とは裏腹に気恥ずかしげかなめの横顔を見つめて、宗介がほんの少し表情を弛めた。そのささやかな変化に、少女が気付くことはなかったし、少年自身もまた気付いてはいなかった。
 いつのまにか、マンションはほんの目の前に迫っている。かなめは、宗介を夕食に誘うために改めて口を開いた。
 雪は一向に止む気配もなく降り続けている。
 二人が路面に残した足跡は、すぐに新しい雪が消し去っていった。

END





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